自分にとっての「読書について」を思索し続けないと馬鹿になってしまう理由

お題「我が家の本棚」

読書好きのバイブル「読書について」


 

「趣味は読書です♪」という言葉には常に疑念がつきまとう。

どんな本が好きなのか、どのくらい読むのか、いやいや、そう言う事ではなく、活字を読むと落ち着くんだ、日常から飛び出して別世界に行けた気がするんだ、履歴書の趣味に無難だし本も読んでるっちゃあ読んでるから、他、上げれば切りがないほど読書は人により千差万別である。この読書という行為が創り出す、虚像の正体はなんなんだろう、そんな事を考えはじめている人にお勧めの一冊が、ショーペンハウアーの「読書について」である。

 

本ばかり読んでたら馬鹿になるよ

コレ、随分前に私が本を読まず漫画ばかり読んでいる夫に言われたセリフなのだが(ちなみに私は漫画も本も両方好きだが、漫画の読書量は夫に比べて大分劣る)、当時の私は確かに「趣味は読書です♪」という言葉をなんの疑問も持たずに言えるような、純粋で無知で愚かな人間だった。

なのでちょっとムッときて、読書とポジティブワードで検索して出てきたのがこの、「読書について」という本だった。確か読書好きな方の作成したHP(またはブログ?)で見た筈だがどなたのHPか忘れてしまった。(すいません…でも教えてくれてありがとう)

私はその頃哲学というおバカな私にはかなり難解な分野の本に手を出しかけてはその難しさに手こずっていた時期だったので、「また哲学者!しかも岩波文庫(私にとっては難しい表現や語彙が多くとてま読みにくいなと思う率が高く、馬鹿お断りって言われたいる気がして苦手意識の強い文庫です)!ギャッ!」となったが、とりあえず面白そうだったので読んでみたところ、なんと、夫が深い意味なく吐いたセリフと同じような事がそこにも書かれてあるではないか。

 

他人の知識や思想をレンタルできる最強媒体に潜む落とし穴

本好きな沢山の方々が同じように紹介している本だと思うので今更感があるかもしれないが、自分なりにショーペンハウアー先生のいう事を解釈するとこうなる。↓

本を読む事は、脳内で別の人にステージ(本では運動場とある)を貸して、そこでその人の知識、思想、意見を披露してもらうようなものなので、他人の知識や意見を脳内体験しただけに過ぎないのだが、あたかも自分が全てに精通し、偉大になったと錯覚すると、考えや意見がない中身空っぽの薄っぺらい人間になってしまうから、その辺を注意しながら、自ら思索し続け、自分のキャパシティを把握した上で多読に走らず良書を精読するように、その為には大事な時間を悪書で費やしてはいけない、悪書を避けたいのならまずは古典を読みたまえ、という内容の本である。

他人の知識や思想が簡単に手に入ると思っているのならそれは大間違いで、闇雲に本ばかり読んでいたら馬鹿になるというのは、ある意味本当だったのだ。

 

だからこそ読書について思索し続ける事の重要性

読書はそもそも他人の知識や思想を垣間見ることができる便利で魅力的な媒体だが、読書を最終目的にしてはいけない。百聞は一見にしかずというように、悪書に惑わされ、自ら考える事を放棄して、多読に時間を費やして、現実生活を疎かにするということはショーペンハウアーからすれば本末転倒なのである。

どちらかいうと読んだ後、それを自分の中でどう消化していくか、その本の伝えたいことを理解し、かつ著者の意見を鵜呑みにすることなく、自らの答えを導きだすために考え続ける、というのが、自分を成長させる上で重要なことなのだ。

ここが抜け落ちると、知識はあるが自分の思想はない、けどそれにも気づいていない、という恐ろしい人間が誕生する。えてしてこういう人間は他の影響を受けやすく、操作されやすいであろう。表社会にも裏社会にも一定数存在する狡猾な奴等の餌食になりやすいと思うので、そうならないようにするには、思索し続けるにこしたことはない。

 

忘れる事への罪悪感よりも、自分の為に読むという姿勢が大切

ではその言葉どうり悪書が不利益なものだったとして、運良く良書に出会えたとしても自分のレベルが追いつかず、読んだ後思った以上に覚えていない、またはすぐ忘れてしまった、と落ち込んでしまう事ってないだろうか。

私は何度もあるのだが、そこにもこの本は光明をさしてくれている。

わかりやすく読書を食事のようなものに例えて説明してくれているのだが、読んだきり何も考えず消化不良なのはもちろん良くない、読んだものをそのままの状態で残しておくのも相当良くない、ちゃんと噛んで消化して少しでも心身に合うものがあれば自分の栄養にしろよ、と言っている。だから全部覚えよう、取り入れようなんて傲慢だし、自分にあっていない服を、無理矢理合わせて着ようとして似合わないよって言われるより、その書物の一欠片でも自分の為になる部分だけ吸収すればいいのだ。ショーペンハウアーのいうところでは、さしずめ私は思考体系が備わっている数少ない人間ではなく、目的の為の読書取り捨てモグモグ人間だと思うが、本を読んでいれば歩みの遅速はあれど読解力や語彙力はレベルアップしていく。それは今後様々な本を読む上で役に立っていくはずである。

一番忘れてはいけないことは、本を読む理由の根底は自分の為だ、ということだ。そう考えれば、読了後に何も得られるものがなくても、読書した内容を覚えていなかったとしてもそこまで凹む事もなくなるだろう。それでも負の感情が湧き上がってきたら、もう開き直ってどんどん愚かで無知な自分を受け入れて、新たな知識欲の原動力になるようにつなげていけばいいと思う。というのが今現在の私の読書への到達点だ。

 

f:id:dpok21bb:20201108230450p:plain

最後に、読書についての斜め上方向への読み方も面白い

私は哲学書は難しくて挫折しそうになりながら読み切っては、結局なーんかよくわかんなかったー、という事が結構あるなか、ショーペンハウアーの読書については、結構読みやすかった。最近は光文社古典新訳文庫でも発売されており、現代人はこちらの方がよみやすいのかな、とは感じたが、言っていることはほぼ変わっていない。どちらが良い、悪いという事ではないので、読み比べてみるのもおすすめだ。

そしてショーペンハウアーの毒舌な文章は読み物としてもかなり面白い。この本は、「思索(光文社では、自分の頭で考える、になっている)」、「著作と文体」、「読書について」、の3部作(といってもこれ自体書籍の一部を切り取ったものです)で、世間で感心を寄せられているのは「思索」と「読書について」の部分なのだが、実は一番長いのは「著作と文体」である。この章はショーペンハウアー節炸裂の主にヘーゲル筆頭に日刊紙の記者、書評家、他日銭を稼ぐために悪書を垂れ流す者達への主観入りまくりの悪口と、自身の国語、文法、古典に対する愛を惜しみなく語っている章である。「現代人ときたら文法上この前置詞はそこでは使ってはいけないだろうに、けしからん、それになんだ、この難解で遠回しなくどい文章を知ったかぶりのように書きやがって、もっとわかりやすく書け、ボケ」ということを訴えている。(と思います)

皮肉満載でかなり笑える。

ちなみにショーペンハウアーは私のように本名も名乗らずに書評家気取りで低俗な文章を書く人間は大嫌いなようだ。永遠の片想いである。

そして今「趣味は読書です♪」と堂々と発言する、無知で愚かだが、純粋さは失われた私がいる。でま考えることだけはあきらめないでいれば、まだまだ読書は楽しめる。またそのうち、読書に対する価値観も変わるかもしれない。自分自身の読書の歴史、是非刻んでいってほしい。


 

スポンサーリンク