相棒辞書と出会える本。ガンダムのモビルスーツのように辞書を操縦せよ

国語辞典、このお堅くて、重くて仰々しいこいつらには夢が詰まっている。本を読むなら一冊位は持っていて損はしないはず。

でも何を選んだらいいかわからない!なんて方に朗報、今は辞書ソムリエのような本がある

その名も

学校では教えてくれない!国語辞典の遊び方


 

選び方ではなく遊び方というのがミソ

 

主張強め、実は性格も伝えたい事も違う国語辞典達

ボキャブラリーがないなんてセリフを英語の意味も知らずに使っていたおバカな時代があった私だが、本を読む上で避けて通れない問題、そう、語彙(=ボキャブラリー)の意味である。わからない語彙にいちいち躓いてはいられないからと放置すると、脳にアホがどんどん溜まっていくので注意しなくてはいけない。いちおう調べるようにはしてるけど、たまに面倒になることもある。この読む、調べる、という作業そのものを楽しもうではないかと問いかけてくるのがこの本なのだ。

実際ぴったりの辞書なんてどうやって見分けるのだろうか、という疑問がでてくるが、同じ国語辞典でも出版社が違えば記載されている語彙や、語彙の説明すら異なってくる。恋愛という言葉についてあっさり一行で終わらせている辞書もあれば、何行にもわたり熱く語っている辞書もある。

辞書の読み比べはガンダムのモビルスーツの性能を比べたいのと同じ?とも書かれており、国語辞典はそれぞれとても個性的、そんな国語辞典達の性格や特技を紹介している本なのだ。でもモビルスーツってなると所詮ニュータイプ用のなんて乗りこなせないし、実際乗れる機体なんて量産型だろうよ、性能もなにも選べなくね!?という、意地悪なツッコミをしてはいけない。

 

自分のスタイルにあう、かつ弱点をフォローしてくれる辞書と遊ぼう!

最初はチャートで自分のタイプを診断できるようになっている。雑誌の心理テストをやってる雰囲気、その後おすすめされた辞典ページにいくと、辞典が漫画チックなイラストに擬人化されており、例えば

岩波国語辞典(都会派インテリメガネ君 岩国くん) 

  • まずはスタンダードが知りたい人
  • 伝統と格式を重んじる保守的な人
  • シンプルな一冊目の辞書を探している人

新明解国語辞典(マイノリティの味方!ワイルドな秀才 新明解くん)

  • 文脈での「語」の意味を知りたい人
  • サービス精神が旺盛で熱い人
  • 人からどう思われても大丈夫なB型気質
出典 学校では教えてくれない!国語辞典の遊び方

 

とかかれていたりする

ミーハーだから今時の言葉が沢山載っている方がいいとか、言葉の成り立ちを詳しく教えてくれるからこれにしようかなとか、自分の好みによりマッチした辞書がえらべるようになっているのだ。

書店でカバーに入っている辞書を立ち読みしていいかもよくわからないが、今はさらにコロナ警察の目もあり、中々吟味が難しいと思うので、これから辞書を刷新したい方は参考にしてもらいたい。

 

紙は時代遅れ?辞書を引く時間が無駄?だったら何か問題でも?

最近はわからない語彙があってもネットで調べたらでてくるからそんなのいるのか!?時間の無駄では!?なんていう奴さんには是非いいたい、人生には無駄があったっていいではないか。むしろ無駄をいかに楽しむかも豊かに生きる術の一つである。もちろん遊びの話であり、仕事中は効率を考えないと干されることもある世知辛い世の中なので注意。

無駄

役にたたない事。効果、効力がないこと。▷無駄は当て字

出典 明鏡国語辞典

このように調べる癖がついたら自然と語彙力もついてくる。(まあ私はアホなので一つ覚えるかわりに一つ忘れているような気もしているが)

でも紙の辞書は時代遅れだと言う人もいるだろう。私は目があまり良くないのでブルーライトが目に悪い光なんだってよ説にビビっているのでなるべく紙で過ごしたい派だが、未だに紙紙言ってたらカビ生えますよって思われる方にはもちろん、アプリからダウンロードという方法を利用して閲覧できる辞書もある。

三浦しをんさんの「舟を編む」を読んだことがある人ならわかってくれると思うが、辞書は辞書編纂に携わる方々が長い年月をかけて作り上げる芸術作品だと私は思っている。紙質にも拘りがあるようなので、そう考えると結構乙なものだ。

ネットは便利で私達の生活を豊かにしてくれるものだ。ただネットで語彙を調べると記憶からなくなるのも早いような気がする。完全に頼りきってしまっているからかもしれない。これは動機付けの話だから覚え方次第と言われればそれまでだが、楽に手に入るものはありがたみを感じにくいというのは本当だろう。

言葉の大航海、それが辞書、だから日本で最初に作られた言海という辞書のネーミングセンスは抜群。せっかくだからこのまま日本の国語辞典=言海で突っ走って欲しかった。

自分にとっての「読書について」を思索し続けないと馬鹿になってしまう理由

お題「我が家の本棚」

読書好きのバイブル「読書について」


 

「趣味は読書です♪」という言葉には常に疑念がつきまとう。

どんな本が好きなのか、どのくらい読むのか、いやいや、そう言う事ではなく、活字を読むと落ち着くんだ、日常から飛び出して別世界に行けた気がするんだ、履歴書の趣味に無難だし本も読んでるっちゃあ読んでるから、他、上げれば切りがないほど読書は人により千差万別である。この読書という行為が創り出す、虚像の正体はなんなんだろう、そんな事を考えはじめている人にお勧めの一冊が、ショーペンハウアーの「読書について」である。

 

本ばかり読んでたら馬鹿になるよ

コレ、随分前に私が本を読まず漫画ばかり読んでいる夫に言われたセリフなのだが(ちなみに私は漫画も本も両方好きだが、漫画の読書量は夫に比べて大分劣る)、当時の私は確かに「趣味は読書です♪」という言葉をなんの疑問も持たずに言えるような、純粋で無知で愚かな人間だった。

なのでちょっとムッときて、読書とポジティブワードで検索して出てきたのがこの、「読書について」という本だった。確か読書好きな方の作成したHP(またはブログ?)で見た筈だがどなたのHPか忘れてしまった。(すいません…でも教えてくれてありがとう)

私はその頃哲学というおバカな私にはかなり難解な分野の本に手を出しかけてはその難しさに手こずっていた時期だったので、「また哲学者!しかも岩波文庫(私にとっては難しい表現や語彙が多くとてま読みにくいなと思う率が高く、馬鹿お断りって言われたいる気がして苦手意識の強い文庫です)!ギャッ!」となったが、とりあえず面白そうだったので読んでみたところ、なんと、夫が深い意味なく吐いたセリフと同じような事がそこにも書かれてあるではないか。

 

他人の知識や思想をレンタルできる最強媒体に潜む落とし穴

本好きな沢山の方々が同じように紹介している本だと思うので今更感があるかもしれないが、自分なりにショーペンハウアー先生のいう事を解釈するとこうなる。↓

本を読む事は、脳内で別の人にステージ(本では運動場とある)を貸して、そこでその人の知識、思想、意見を披露してもらうようなものなので、他人の知識や意見を脳内体験しただけに過ぎないのだが、あたかも自分が全てに精通し、偉大になったと錯覚すると、考えや意見がない中身空っぽの薄っぺらい人間になってしまうから、その辺を注意しながら、自ら思索し続け、自分のキャパシティを把握した上で多読に走らず良書を精読するように、その為には大事な時間を悪書で費やしてはいけない、悪書を避けたいのならまずは古典を読みたまえ、という内容の本である。

他人の知識や思想が簡単に手に入ると思っているのならそれは大間違いで、闇雲に本ばかり読んでいたら馬鹿になるというのは、ある意味本当だったのだ。

 

だからこそ読書について思索し続ける事の重要性

読書はそもそも他人の知識や思想を垣間見ることができる便利で魅力的な媒体だが、読書を最終目的にしてはいけない。百聞は一見にしかずというように、悪書に惑わされ、自ら考える事を放棄して、多読に時間を費やして、現実生活を疎かにするということはショーペンハウアーからすれば本末転倒なのである。

どちらかいうと読んだ後、それを自分の中でどう消化していくか、その本の伝えたいことを理解し、かつ著者の意見を鵜呑みにすることなく、自らの答えを導きだすために考え続ける、というのが、自分を成長させる上で重要なことなのだ。

ここが抜け落ちると、知識はあるが自分の思想はない、けどそれにも気づいていない、という恐ろしい人間が誕生する。えてしてこういう人間は他の影響を受けやすく、操作されやすいであろう。表社会にも裏社会にも一定数存在する狡猾な奴等の餌食になりやすいと思うので、そうならないようにするには、思索し続けるにこしたことはない。

 

忘れる事への罪悪感よりも、自分の為に読むという姿勢が大切

ではその言葉どうり悪書が不利益なものだったとして、運良く良書に出会えたとしても自分のレベルが追いつかず、読んだ後思った以上に覚えていない、またはすぐ忘れてしまった、と落ち込んでしまう事ってないだろうか。

私は何度もあるのだが、そこにもこの本は光明をさしてくれている。

わかりやすく読書を食事のようなものに例えて説明してくれているのだが、読んだきり何も考えず消化不良なのはもちろん良くない、読んだものをそのままの状態で残しておくのも相当良くない、ちゃんと噛んで消化して少しでも心身に合うものがあれば自分の栄養にしろよ、と言っている。だから全部覚えよう、取り入れようなんて傲慢だし、自分にあっていない服を、無理矢理合わせて着ようとして似合わないよって言われるより、その書物の一欠片でも自分の為になる部分だけ吸収すればいいのだ。ショーペンハウアーのいうところでは、さしずめ私は思考体系が備わっている数少ない人間ではなく、目的の為の読書取り捨てモグモグ人間だと思うが、本を読んでいれば歩みの遅速はあれど読解力や語彙力はレベルアップしていく。それは今後様々な本を読む上で役に立っていくはずである。

一番忘れてはいけないことは、本を読む理由の根底は自分の為だ、ということだ。そう考えれば、読了後に何も得られるものがなくても、読書した内容を覚えていなかったとしてもそこまで凹む事もなくなるだろう。それでも負の感情が湧き上がってきたら、もう開き直ってどんどん愚かで無知な自分を受け入れて、新たな知識欲の原動力になるようにつなげていけばいいと思う。というのが今現在の私の読書への到達点だ。

 

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最後に、読書についての斜め上方向への読み方も面白い

私は哲学書は難しくて挫折しそうになりながら読み切っては、結局なーんかよくわかんなかったー、という事が結構あるなか、ショーペンハウアーの読書については、結構読みやすかった。最近は光文社古典新訳文庫でも発売されており、現代人はこちらの方がよみやすいのかな、とは感じたが、言っていることはほぼ変わっていない。どちらが良い、悪いという事ではないので、読み比べてみるのもおすすめだ。

そしてショーペンハウアーの毒舌な文章は読み物としてもかなり面白い。この本は、「思索(光文社では、自分の頭で考える、になっている)」、「著作と文体」、「読書について」、の3部作(といってもこれ自体書籍の一部を切り取ったものです)で、世間で感心を寄せられているのは「思索」と「読書について」の部分なのだが、実は一番長いのは「著作と文体」である。この章はショーペンハウアー節炸裂の主にヘーゲル筆頭に日刊紙の記者、書評家、他日銭を稼ぐために悪書を垂れ流す者達への主観入りまくりの悪口と、自身の国語、文法、古典に対する愛を惜しみなく語っている章である。「現代人ときたら文法上この前置詞はそこでは使ってはいけないだろうに、けしからん、それになんだ、この難解で遠回しなくどい文章を知ったかぶりのように書きやがって、もっとわかりやすく書け、ボケ」ということを訴えている。(と思います)

皮肉満載でかなり笑える。

ちなみにショーペンハウアーは私のように本名も名乗らずに書評家気取りで低俗な文章を書く人間は大嫌いなようだ。永遠の片想いである。

そして今「趣味は読書です♪」と堂々と発言する、無知で愚かだが、純粋さは失われた私がいる。でま考えることだけはあきらめないでいれば、まだまだ読書は楽しめる。またそのうち、読書に対する価値観も変わるかもしれない。自分自身の読書の歴史、是非刻んでいってほしい。


 

『葡萄が目にしみる』の乃里子に捧げたい、あなたの芋っぽさに救われた人間が少なからずいたで賞

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今週のお題「いも」

『葡萄が目にしみる』は芋っぽい主人公乃里子の自意識ダダ漏れの青春小説である。(ネタバレなし、ですがストーリーの概要について書いています)

乃里子は、見た目パッとしない、芋系女子。高校という閉鎖的な空間の中で周囲に対して人一倍敏感に反応し、これといった目標もなく、何かロマンチックなことが起きないかと密かに期待している女子高生。

二次元の世界に主人公の面接があったら落とされる確率が高い主人公、男性主人公のヒロインの面接があったら、きっと書類選考で落とされるようなタイプ。

では魅力のない主人公かといわれればそうではなく、むしろあっという間に読み終えてしまうほど夢中になれる物語だった。その理由は主人公乃里子の芋っぽさに他ならない。

乃里子は、友達と恋愛談義に花を咲かせ、その溢れ出る自意識と、フッとチラつく芋っぽさがいい塩梅で混ざり合い、早い話結構みていて痛い女子である。ただ、「じゃあお前はどうだったんだよ、人のこと棚にあげやがって!」と言われたら、そう、正直私にもあった、振り返るのも躊躇うほどに恥ずかしい自意識過剰時代…。

中学高校時代って一番ヒエラルキーに敏感な時期ではなかっただろうか。私は中学時代にカーストでいうとバラモンクラスの友達と仲良くする為にオタクを封印して(そして隠れオタクに転職)、結果的にオタクな友達と疎遠になったりした。結局自分はバラモンはおろかクシャトリヤにすらなれたわけではなかったと思うが、恐ろしく盲目な青春時代故の苦い思い出である。

でも乃里子を見ていると、「あ、私もこんな時代があって良かったよね、恥ずかしいけど、恥ずかしいことを受け入れていいんだよね。」と、何か乃里子に励まされている感じがするのだ。

もし乃里子が芋っぽくなかったら、きっとひねくれた私の自尊心にはより沿ってくれなかっただろう。彼女が美人で垢抜けた女子高生だったとしたら、「あなたもどうせバラモン階級の口でしょ、そういうのは少女漫画でやってよ、私の気持ちなどわかるもんか。」と私自らシャッターをおろしてしまうからである。

乃里子が芋っぽいから、穴があるなら入りたいくらい恥ずかしい記憶を思い出しても皆嫌味を感じずに受け入れることができるのではないだろうか。

それに芋っぽくても、将来はおしゃれなポテトグラタンになれるかもしれないし、料亭の肉じゃがになれるかもしれない。乃里子よ、これからも沢山の思春期の心に寄り添える女子であれ。

 

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